上内八幡宮の由緒・御祭神
上内八幡宮の創建は、丞平七年五月(西暦九三七年)と、記録されております。創建の目的は、戦乱の中当時の三池方により、この地への敵方の侵入を防ぐ為の守護神として八幡神を勧請創建されております。
また三池城下よりこの上内八幡宮の方位は、表鬼門となり三池城,
北部要衝と風水による三池の丑寅の鬼門(表鬼門)の守護も考えられます。
当時は、両部系の神宮寺であったことから、社僧がいたと記録されており、現在も祈祷には、理趣教等を用いる場合があります。。
当時の社殿壮大と記録されていますが、大友宗麟、龍造寺隆信らの戦乱により焼失、現存するのは、正平塔の一部のみです。
寛永年中、立花内膳家宗繁公は、島原の乱の一番乗りの功績により、上内を采地として知行されると、上内八幡宮を再興しました。以後加持祈祷の神社として、多くの参拝者にお参りされています。また、三池のあるの神社の鳥居と神殿の位置がずれてるのはどちらかを上内に向けることで、上内八幡宮と立花内膳家に敬意を表す為と云われております。
神殿は昭和十一年に再興。
平成二十二年神殿改修工事完了。 御祭神
應神天皇 (誉田別命)
神功皇后 (息長帯姫)
比メ神
この三柱の神様が八幡大神様である。
八幡大神様は、武門の神様と思われがちですが、学問、安産、財運、は勿論この世の苦しみから人々を守ってくださる有りがたい御神威の大きい神様です。
上内八幡宮のお祭り
一月一日 | 午前零時 | 歳旦祭 |
四月二十九日 | 夕刻より | 春季例祭 |
七月三十一日 | 夕刻より | 夏越祭、四百年近い歴史を持つ 茅の輪潜り |
十月十七日 | 午前中 | 旦那様祭り、上内立花家に感謝する祭り |
十二月十六日 | 終日 | 例大祭、仮装行列あり。 |
- 一、上内内膳家概要 島原の乱にて、原城一番乗りの功績を称えられた立花宗繁公は、上内を采地とし知行されることとなります(采地知行とは、わかりやすく言えば柳河藩からも三池藩からも独立した行政を内膳家が行うことです。)その、内膳家の初代宗繁(そうはん)公が柳河藩初代宗茂(むねしげ) 公と混同されがちですが、全くの別人物です。 宗茂公(柳河初代)の甥っ子が宗繁公(上内初代)です。※後年、この上内内膳宗繁公の弟君が、二代柳河藩主になられます。
- 二、逃散(百姓一揆)
四代種命(たねよし)公の時代に逃散(百姓一揆)がおこります。
享保14年(1729年)、これは多くの農民が旱魃や大風により不作が長く続くにも関わらず、厳しい年貢の取り立てに苦しみ、隣国の肥後領に逃亡したのです。内膳家の本家である柳河藩にしてみたら隣国への逃散は、本家柳河藩主の顔に泥を塗られたような大事件です、従いすべて農民は連れ戻され、幕府の許可を得、首謀者12名が死刑となりました。この悲しい出来事の原因、長年の旱魃、大風は上内八幡宮を現在の鎮座地より東北へ遷座したことが八幡大神の逆鱗に触れた祟りであったと思われました、そこですぐに今の場所に戻されましたが、天候不良による水対策は内膳家の大きな課題となるのです
※上内八幡宮の創建は、当時の三池師により北部守護要衝としてなされました。隣国の敵方が、国境より安易に三池城下へ襲来できないように、八幡大神を勧請建立されたとされます。それを遷座することは、大変恐れ多いこととされたようです。 - 三、六代寿賰公の功績
上内立花内膳家六代寿賰(ひさとみ)公こそが、だんなんさん祭り、その名のだんなんさんでございます。寛政4年(1792年)柳河藩家老となり、同年上内に山筒組という鉄砲部隊の基礎を作ります。藩政改革を懸命に行いますが、そうなると藩内には寿賰公に風当たりが強く逼塞(ひっそく)をくらいます。されども、寛政11年(1799年)花畑ご用係に復職享和3年(1803年)上内に吉ヶ谷大堤を築き、文化2年(1805年)下の堤を築造いたし、祖父である内膳家四代よりの民百姓のための悲願(前述逃散の悲劇)、旱魃水難対策が完成いたしました。婦人の作られた、妙経一字一石塔が今も残ります。
文政2年(1819年)再び柳河藩主席家老として復職、将軍家御目見得。文化3年(1806年)三池立花藩主失脚し、その子供は現在の福島県伊達市に移封されてしまいます。なんとか三池藩を建て治すべく幕府に対し寿賰公手を尽くし見事、三池立花藩は、旧領の半分なれども復帰することができました。寿賰公は、柳河藩の主柱として重きをなし、ご活躍された方でした。 - 四、だんなんさん祭り
寛政年間、上内に赤痢が大流行します、次々に人々が命をおとし、薬も全く無く、その惨状は、目に余るものがありました。寿賰公は、上内の人々の苦しみをとても憐れみ神仏への加持祈祷は勿論、大釜にて薬を煎じ周囲の村々の患家にまでも、漏れ落ちることなく救済の手を差し伸べられました。住民は、これを仁慈恩恵に感じ、上内八幡宮境内に角力(相撲)の奉納を行い報恩感謝の意をあらわしました。逃散から始まり、吉ヶ浦に堤が完成し、赤痢が治まり、だから続く現在への命。これが旦那様(だんなんさん)祭りの起源です。二度と再び、自然災害による住民の被害がなきようにとの神様への願い、逃散で犠牲となった方々、赤痢で亡くなられた方々へ、遠く長い時間の向こうの祖先への感謝と、その御霊を神様の恩賴(みたまのふゆ=神様のお力)による慰霊、それらが、だんなんさん祭りの意義であります。現在の氏子地域以外からも広く参加いたしました。
※当時の神社の管轄は、寺社奉行が行いました、まだ宗繁神社も創建はされていません。そのなかで内膳家六代目寿賰公の名前を冠した神事が行われることは、希といえます。また、一地方の采地において、鉄砲隊である山筒組が組織されたことも異例ではないでしょうか。このような面からも、寿賰公のご活躍、人物像をうかがい知ることができのではないでしょうか - 以上は、平成一八年十月の旦那様祭りにおいて、わかり得る事情を上内八幡宮 宮司 矢野高貴がまとめまして参列者に配布いたしたく記しました。また今後、新しい歴史が発見されれば、予告なく改編いたします、文献により微妙に年号等に違いがあるようです。
- 相撲の奉納には、氏子の子孫である子供がその土地にたくさん産まれ、すくすくと育つようにとの願いがあり、またその土地の神様から授かった子供や若者達の元気な様子を神様にご覧頂く意味もあるようです
- 平成十八年十月十七日 宮司 矢野高貴 平成二十八年四月十八日 一部改訂